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私たちこそが少数派。日本人が持つ特殊な死生観・遺体観の不思議。

時代が変われば日本人の道徳観は変化していく。(悪い方に?)

守るべき伝統的な価値観と、進化するべき観念と。


 
こんにちは、黒塚アキラ(@kurozuka_akira)です。最近YouTubeチャンネル「黒塚アキラ」をはじめ動画投稿に注力しておりました。そしたら動画編集が楽しくてブログがおろそかになってきていました…(笑)
 

 

もう、動画編集と投稿が楽しすぎて(笑)ブログをサボっている分、全てのチャンネルでしっかり動画数が増えてきました。そしてなぜかチャンネル登録者数が増え始めた。ブログやってない時はYouTubeにいると思ってください。

 

ラジオやショート動画を始めたりして、ますますチャンネルが盛り上がっております。やりたい企画ばかりがどんどん思いついちゃって、本来の日程が進みません(笑)でも少しずつ動画を出せるようになってきました。

 

 





 

連日ショート動画をあちこちのチャンネルで投稿してきたおかげで、みるみる編集技術が身についてきました。やっぱり動画をたくさん投稿するしか上手くなる道はないですよね。

 

自分のやりたいことが形になるって面白い。もしかしたらブログより動画編集の方が向いているのかも知れないのでは?と考えるようになりました(笑)

 

 

ラジオも楽しいし、台本を書くのも楽しいし、編集も投稿も楽しいし、撮影であちこち出かけるのも楽しいし…この動画投稿生活をブログと連携させたいと思っているので、ブログを辞める選択肢は今のところ全くありません。

 

 

今の時代は動画で分かりやすく伝えるのが主流ですが、ブログにも良い所があるし、何よりPCの電池を消耗しすぎずに済む(笑)動画編集より時間がかからないですからね。

 

 

今回の記事は人が持つべき道徳観念と、この先進化させていくべき習慣や価値観についてです。連日の動画投稿も「新しい価値観」として受け入れつつ、今まで10年以上続けてきたブログ生活も安定して運営したい。変化と安定はどちらも必要不可欠です。

 
 

 

遺体を大切に扱う日本人、ただのモノ扱いする外国人。

知床観光船沈没事故を見ると、日本人は遺体の回収に徹底的に拘る気質のようです。

 

指摘されるまで気づかなかった事が多く、日本って色んな意味で孤立しているんですね。その中でも特異なのが遺体や死生観。特に遺体に関しては死んでも五体満足に拘る傾向が強く、外国人とは真逆らしいです。なぜ日本人はそんなに拘るんでしょうか。

 

 

もっと不思議なのが、私たちは誰に教わるでもなく、遺体の完全さにこだわる瞬間があります。学校で教わるわけでも無いし、そんな宗教も別にやっていないのにも関わらずです。不思議ですね。海外から見たらその状況は異質に感じるそうです。

 

 

「死んだらもう動かないんだから、身体を捜す必要なんてない」って考えるのは、どうしても気がひけますよね。このモヤモヤ。

 

わざわざ遺体の完全さに拘るのは効率が悪いのでしょうか。でも人の死は効率かどうかで決められないと思うし、我々日本人から見たら遺体をモノ扱いする考え方のほうが異質ですね。

 

 

日本人の遺体に関する記事を見つけ、非常に強く共感しました。1999年に投稿されたHP内の記事です。この頃は文章が読みやすいし、知性のある人の文章がきっちりまとめられている時代でしたね…(笑)

 

1999年のHPからご紹介。この時代のネットは読みやすい。

ここに日本人の遺体に関する典型的な態度を現した例がある。それは、1985 年8月に起きた日航ジャンボ機墜落事故の際の出来事である。

 

山の斜面の半径数キロの範囲にわたってジャンボ機の破片ならびに遺体が飛び散らばった。焼けこげて身元判別困難な遺体や、中には、左腕だけが木の枝にひっかかっていたり、下半身だけが谷間に転がっていたりしたケースもあったという。

 

当然のことながら、警察関係者による遺体の身元確認作業が行われた。中には家族が見れば一目で確認できるような完全な遺体もあったが、一方で、歯科治療の歯形の照合や、着衣や装飾品から本人を推定するという方法で本人確認された遺体もたくさんあった。極端な場合、指一本だけや片耳だけというような部分遺体もあったそうである。

 

 

遺体を引き取りに来た家族の態度が、日本人と外国人(英国・米国・豪州・韓国人等)とでは大きく異なっていたそうである。

 

事故現場の凄惨な様子 (生存の可能性どころか完全な遺体の発見すら難しい) を一目見たある外国人遺族に、日本の警察がいかに身元確認のための努力をしているか説明すると、怪訝な顔をして「なぜ手や足まで(誰のものか)識別しなければならないのか?」と逆に質問をされたという。

 

そして、「死んでいるということは、精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、すべてをまとめて火葬にすればいいだけである。それより、補償条件の交渉に入りましょう」と言われたそうである。

 

日本人の場合は、これらの態度とはまるっきり異なっていた。「完全な(五体揃った)遺体」に固執するのである。

 

遺体の顔かたちがハッキリしていて、身元確認が容易であったとしても、もし、片足が欠けていたら「徹底的にその片足を探して欲しい」という。もし、遺体が発見できない、あるいは誰の遺体か特定できないような場合には、「せめて本人が所持していた腕時計や靴などの遺留品だけでも欲しい」というそうである。

 

そう、遺体は徹底的に探すし遺留品だけでも見つかって欲しいと思うのが我々の普通。この考え方を自然に出来るかどうかで外国人かを見分けられる時もありますね。

 

 

飛行機墜落事故も知床観光船沈没事故も、心の奥底では「見つからないかもな…」と分かっていても、せめて衣服や遺留品は見つかって欲しいと思いながら報道を確認しています。見つからない=助けなくていいという図式にならないのが日本人特有の遺体観。

 

「冷たい海の奥底にまだいるのかも…気の毒だ…」と亡くなった方に感情移入をするのが普通だと思うんですが、そんな自然に湧き上がる感情でさえも、外国人にとっては理解出来ないのでしょうか。

 

 

そして、「遺体」という字の「遺」には深い意味が含まれていることが分かりました。全く知らなかった情報なので勉強になります。

 

日本人の遺体観について語るためのヒントがあると思い、『広辞苑』で「遺」という言葉の意味をひいてみると:
1)忘れること。置き去りにすること。「遺棄・遺失物」。
2)残ること。特に死後に残すこと。「遺跡・遺愛・遺言」。
3)やり残されたもの。漏れ。「補遺・拾遺」。という意味が出てくる。

 

因みに、「遺体」という言葉を引いてみると:
1)(父母の残した身体の意から)自分の身体。
2)人のなきがら。遺骸。
という意味が出てくる。

 

 

遺言や遺留品の「遺」が、遺体の「遺」と同じ意味を持つことは容易に判るとしても、遺伝子工学の「遺」まで共通の概念で括られるとは…。英語のgeneの日本語訳に「遺伝子」という言葉を当てはめた人はなかなか偉いと思う。

 

 

日本人は、人間存在について、欧米的あるいはキリスト教的な、「高貴な(神から特別に付与された)精神」と「(単なる被造物の一種に過ぎない)低級な肉体」に分けて考える「霊肉二元論」ではなく、霊性と物質を明確に区分することができないアニミズム的感覚の中に生きているのである。

 

日本においては、「死体」は単なるdead bodyではなく、先祖から子孫へと代々受け継いでゆくべき「遺体(親から遺された身体)」である。そのことは、さらには、人間をひとり他の生物存在から隔離して尊いものであると考える立場ではなく、あらゆるモノに霊性を認める、いや、モノにこそ霊性があると信じる、文字通り「山川草木悉皆成仏」の世界である。

 

私たち日本人は、自分たちの存在意義を見失っているのではないでしょうか。遺伝子に「遺」という漢字を使ったことには深い意味があるはずです。

 

あらゆるモノに霊性が宿り、必ず存在意義があり、代々受け継いでいくために作られているのだと、私たちは心の奥底で理解しているのではないでしょうか。だからこんなに執拗に遺体に拘ってしまうのかも知れません。誰かに強制されるわけでも無いのに。

 

 

今となっては当たり前の臓器移植。開始当時はかなり拒否感を示す人が多かったはず。


臓器移植が本格的に始まった頃、かなり嫌悪感を覚えた記憶があります。皆さんはどうでしたか?
 

そして更に、私たち日本人は臓器移植にも抵抗を感じる生き物です。私は臓器提供の意思表示はしたことがありませんし、やるつもりはありません。自分の一部が持ってかれる、って死んでも嫌だからです。文字通り、死んでも嫌。

 

 

もしかしたら、死んだ後も私たち日本人は自分が使っていた肉体に拘ってるのかも(笑)

 

 

今でこそ臓器移植・臓器提供は当たり前の話題となりましたが、子供の頃臓器移植の話題が盛んになった頃嫌悪感を覚えた記憶があります。自分の内臓が持ってかれたらどうしよう、とか。他人の臓器は欲しくない、とか…。

 

 

「困っている人を助けよう」などという大義名分を押し付けられて盛んに宣伝されていますが、やっぱり…どうしても無理ですね。令和の時代では臓器移植や臓器提供の話は当たり前に行われていて誰も疑問に感じなくなりましたが、長年の刷り込み(つまり洗脳)でも、どうやら嫌悪感の払拭には至らないようです。

 

 

記事の続きです。

先進国である日本の多くの医療機関は、臓器移植を実施するだけの設備も能力も備えながら、長らく脳死臓器移植が行えなかった。その間、数多くの移植希望患者が、大金を投じて欧米へ出かけて移植手術を受けてきた。

 

人口1億2500万人を擁する日本であるから、交通事故による脳死や、くも膜下出血や脳梗塞による脳死者は、国中のどこかで毎日のように発生しているはずである。また、臓器移植以外に助かる道のない重度の心臓病や肝臓病等の患者も多数いるはずである。しかるに、日本国内での脳死臓器移植が長らく行われなかったのは、とりもなおさず、「霊肉一体論」の日本人の宗教観が邪魔をしていたとしか考えられない。

 

 

ここで大変興味深かったのは、欧米の宗教家に比べて極めて科学技術指向の強い日本の宗教家たちは、脳死者からの臓器摘出やこれを必要とする患者への移植そのものの神学的是非にはあまり関心を持たず、むしろ、「摘出した臓器の運搬の方法(釣った魚を家まで持ち帰るためのクーラーボックスのような箱に収納して運ぶ)が、死者の臓器に対して礼節を欠いている」という点にこだわった。曰く「もっと、恭しく捧げ持ちなさい」と…。

 

そうそう(笑)クーラーボックスで心臓や内臓が病院内に運ばれていく映像を見たことないですか?あれは不気味に感じますね。あの一瞬でも外国人は何も感じないのでしょうか。

 

 

魚じゃないんだからクーラーボックスみたいなチンケな箱に入れなくても…とどうしてもイラッとしてきます。効率を考えたらクーラーボックスしか選択肢が無いんですけど。これも日本人特有の違和感なんですかね?

 

そして長年の刷り込み(洗脳)によって当たり前の光景となりましたが、いざ目の前で生で見たら得体のしれない恐怖を感じると思います…。

 

 

また、医者の方も、「脳死者から臓器を摘出する時には、麻酔注射を打ってから摘出手術を始める」という。おかしいではないか? 医者が言うように、「脳死は人の死」だということであれば、脳死者は痛みを感じないはずである。なのに、痛み止めの麻酔薬を注射するのである。

 

もし、脳死者が痛みを感じるのであれば、まさに、それは「生きている」のであるから、脳死状態ではないはずである。明らかに矛盾している。しかし、日本の医者は言う。「これが臓器提供者に対する礼節です」と…。まさに、宗教家も医師も、どちらも日本人である。

 

効率重視で考える外国人だったら麻酔なんて使わないですぐにお腹をメスでバサッと開いてバサッと内臓を取って、さっさとクーラーボックスに入れちゃいますね。

 

きっと日本人医者だったら、ここに載っていない礼節的な行動で臓器を移動させている気がしてならない。そんな光景が見えてきそうです。死者や臓器提供者に対しても感情移入する人間なんですよ、私たち日本人は。

 

 

臓器移植というような特殊な医療のケースでなくとも、現在では、ほとんどの日本人は病院で死ぬ。

 

最終的な(ターミナルな)段階では、たいてい、体中に多くの生命維持装置や各種のセンサーを装着した状態でベッドに横たわっている。見るからに「痛々しい」状態である。

 

そこで、愛する家族を見送った多くの日本人は、死亡診断直後に医者から質問される「より確かな死因探求のための死後解剖」や「医学研究生のための献体」、さらには比較的低年齢で死亡した場合などは「臓器提供」などの遺族の意思確認に対して、「死んでまで、痛い目に遭うことはない」と言って、これを断り、「五体満足な遺体」を病院から引き取って、故人が住み慣れた家へと連れ帰る。

 

そう、臓器提供に拒否反応を示す人々の一番の理由は、「死んだあとも痛い目に遭う必要は無い」なんですよね。

 

どうしても我々は臓器提供のことより自分が死んだあとの様子に思いを巡らせてしまいます。「困っている人を助けよう」なんていう大義名分(刷り込み・洗脳)はもはや通用しない範囲にあります。

 

 

私たちは五体満足で生き、五体満足で人生を全うしようと考える生き物です。

 

葬儀の際には、宗教上のシンボルである本尊や僧侶の読経(神官の祭詞)に対して拝礼するのではなく、死者の遺体や遺影(顔写真)に対して、恭しく頭を垂れるのである。

 

葬儀告別式が済んだら、五体満足な遺体を火葬に付して、死者の遺骨を遺族みんなで丁寧に拾い集める。そして、それを恭しく陶器の壺に入れて、家まで持ち帰り、仏壇に供えて毎日、生前と同じように、これ(遺骨)に朝夕の食事を供し、遺骨に丁寧に別れを告げ、7週間(四十九日の満中陰)後に一族の先祖が葬られている「○○家の墓」に埋葬するのである。

 

 

それ故、遺骨のない死は真っ当な死ではない。不幸にして、最初の例のような航空機事故などに遭ったら、遺体は徹底的に探される。このように、遺体に対する態度の分析から、日本人の生命(ライフ)観・世界(スペース)観を少しでも理解していただければ、今回の「主幹の主観」は、意味のあるものになったと思う。

 

遺骨・遺体のない死はありえない。だから、東日本大震災でも飛行機墜落事故でも観光船沈没事故でも徹底的に探し続けるんですよね。異様と思える日本人独特の習性ですが、私たちにとってはこれが普通であり日常です。

 

 

私はこの遺体観を非効率的とは全く感じませんし、感情や痛みを感じないはずの遺体に対しても敬意を持てる感性は素晴らしいと思います。

 

本来持つべき伝統的な価値観が、そのまま持ち続けたい。


時代によって刷り込みや洗脳が増えていくけど、心から感じた価値観は大切にしたい。

 

最近は何でも「多様性」と言いくるめて少数派の意見が拡大解釈されているように感じますが、本当に「多様性」が存在するならば、それを否定したり受け入れないこともまた多様性の一つだと思います。SNSを見るとウンザリする時があるんですよね(笑)

 

本当に変えるべき価値観は確かにあります。見た目・体型・髪型・美容・家事・仕事・育児…などなど。
 

「女性は〇〇であるべき、それが出来ないのは女じゃない」とか「男性は〇〇したらかっこ悪い、男らしくない」など。色々ありますよね。私もそんな言われ方を随分されてきたし、自分自身今後はそういう価値観は日々更新しなくちゃなぁ…と感じる瞬間が増えました。

 

 

時代が移り変わるにつれて変わらなくちゃならない部分がありますが、今回の遺体観・死生観のように「これは変わっちゃマズイのでは…」と思えるものは変えちゃならないし、替わりがききません。

 

 

毎日の報道(洗脳・刷り込み)に対してどこまで受け入れるか、またはどこまで受け入れないか。それが重要になってきますね。「全部鵜呑みにするな」という言い方も出来ますが、自分の心に芽生える感情や思いを慎重に観察したいものです。

 

 

心の奥底に湧き上がる声を無視しない。大切に使っていこう。

遺体観だけでもここまで外国人との精神性の違いが浮き彫りとなる。不思議だ。

 

日本人は本当に不思議な生き物(笑)自分自身、この遺体観の拘りに気づかなったです。それが当たり前の世界で過ごしていると気づきにくいものですね。

 

 

毎日次から次へと新しい美徳・習慣が発信されてきますが、正直受け入れるようなものでも無かったりします。なんとなく違和感を覚えたり、直感で拒否したり。心が「これは受け入れられない。無理。」と思ったものは受け入れないのが正解ですね。

 

 

その一方でまだまだ気づかないこともあったり、知らないと損をする場合もありますから、直感の鍛え方が足りてないなとガッカリする日もあります(笑)

 

国民の生活の盲点を突くような悪徳商法や詐欺・洗脳に引っかからないように、常に色んな人の考えを取り入れて価値観を更新していく作業って重要なんだと、最近思うようになりました。老害になるのは絶対嫌だし!

 

 

老害にならないように常に情報を取り入れつつ取捨選択し、なおかつ本来持つべき道徳観念はそのままにしておきたい。その匙加減が難しいですね。

 

 

流行に乗るのはいいですが、手段と目的がはっきりしてなければ何の意味もない「ただ流されるだけの人」になってしまいます。私はそうなりたくない。動画とブログも拘りをもって情報発信していきたいです。

 

 
遺体観から見る日本人の道徳観念は、権力者からの押し付けに負けたりしない。自分の良心を大切にしよう。
 
ここまで記事を読んでくださってありがとうございました!


 

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