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【勉強】マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの教えと言葉(1)解釈の誤解は今起こっている

新企画。ラマナ・マハルシの言葉から真理を学ぶ勉強。

1つ1つ、自分の思考と精神を見つめ直す。


 
こんにちは、黒塚アキラ(@kurozuka_akira)です。唐突な新企画を始めました。もっと精神的な学びが必要だと思い、ラマナ・マハルシの言葉を探る記事を投稿することにしました
 

合計何本投稿する事になるかは分かりませんが、少しずつ勉強して記事を投稿する事にします。

 

他に書きたい記事もまだまだありますので、それと並行して投稿する予定です。全部で何本投稿できるのか今から楽しみ(笑)自分で決めた以上、最後までやりとげます。

 

 

「ヒマラヤ聖者の生活探究」系記事といい、インドやチベット方面には仙人・仙女が多くいるようですね。興味を突き詰めていくとなぜか辿り着いてしまう。彼らの言葉から多くを学び取り、自分の霊的意識の成長に繋げていきたいです。

 

 

Twitterで多くの情報を読み取っても本当に知りたい真理は学べません。マウントの取り合いと顧客商売のスピリチュアル詐欺ばかり。やってられません。

 

私にいま必要なのは圧倒的な静寂です。ゴミ情報の収集活動は必要ありません。

 

 

 

TM瞑想(超越瞑想)には未だ全く興味を持てないんですけど、それでもマハリシの言葉には興味があります。(やりたくなったらやってみます)

 

 

私が本当に知りたいのは自分の魂の力。いまはそれしか興味が無いと言っても良いです。仕事中もずっと考えてます(笑)ブログも動画投稿も大事だけど、ずっと自分の精神・意識・魂のことばかり考えてます。

 

 

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7


いま出来ることは日頃しっかりブログを更新して、彼の言葉を読んで、ちょっとずつ勉強していくことです。

 

ブログや動画投稿で忙しいのにどうしてこう次から次へと新しい事ばかり思いつくのだろうか…(笑)これが全部収益化されたらもっとじっくりゆっくり勉強に取り組めるというのに。悔しい。

 

 

毎日少しずつ勉強、地道に積み重ねていくしかありません。いつか魂が目覚めるその日まで私は諦めない!(笑)

 

「教え」の誤解は今この瞬間から始まっている。

教えを学ぶにあたって、解釈違いや誤解は今この瞬間から始まっている事実に目を向けなければならない。

 

さて、それでは彼の発言について学んでみることにします。

 

ラマナ・マハルシ氏の言葉は後世の人たちに受け継がれてはいるものの、それが詐欺商売の温床になったり、似非スピリチュアルカルト化するのは残念です。せっかく素敵な言葉なのに。

 

彼が遺した言葉は一体どんなものか?変に派生した怪しい商売に手を付けるのではなく、彼自身の言葉を原文に限りなく近い意味で学び取りたい!

 

 

マハリシの教えを貪欲に吸収しよう。

http://maharishi.web.fc2.com/index.htm

 

マハリシは、『バガヴァッド・ギーター注釈』の序文のなかで、教えが誤解されるのは避けがたいことである、と述べています。教師は教師自身の意識の水準から教えを語るのですが、生徒は自分の意識の水準でしか教えを受け取ることができません。そして、誤解の溝は時とともに広がってゆきます。そうマハリシは言います。

 

では、マハリシの教えについてはどうでしょうか。マハリシの教えだけは例外と言えるでしょうか。もちろん、そんな楽観は許されません。無知の硬い岩は、マハリシの教えも簡単に打ち砕いてしまうでしょう。マハリシがブッダやシャンカラを引き合いに出して教えの悲劇について語るのを聞いた私たちは、マハリシの教えもいつか同じ運命をたどるかもしれないが、それはもっと先の将来のことであり、自分以外の誰かが教えを誤解し誤った形で流布するからだ、などと考えるべきではありません。

 

教えの誤解は起こっているのであって、将来のことではないのです。しかも、教えを打ち砕く硬い岩の役割を演じているのは、他の誰でもなく私たち自身ではないでしょうか。

 

自分は教えを理解していると考えた途端に、学びは終わるのではないでしょうか。教えを理解できているという思い込みは、精神を鈍くし、学ぶことを忘れさせます。学ぶことを忘れた生徒は、教えに導かれるというより、みずから作りあげた誤解によって導かれます。

 

教えを学ぶ者にとって、疑問をいだくということ、そして素直に問うということは、きわめて重要なことではないでしょうか。『バガヴァッド・ギーター』のなかでも、アルジュナが要所要所で重要な疑問をクリシュナに投げかけており、マハリシは、もしもアルジュナの質問がなかったならばクリシュナの教えは完結していなかっただろう、と注釈しています。

 

自分の誤解を誰かが正してくれるのを当てにしてはならない、教えを学ぶ者はみずから誤解に気づかねばならない。

教師としてできることには限界があります。理解そのものを生徒に直接与えてやることは、いかなる教師といえどもできません。理解するかどうかは生徒しだいです。教師は、生徒に学びの機会を提供し、学びの手助けをすることはできるかもしれませんが、理解そのものを与えることは決してできません。

 

理解はあくまでも、ひとりひとりの意識において起こることであり、誤解に気づき、理解を開花させるのはひとりひとりの責任であることは言うまでもありません。

 

論争を嫌うあまり議論を拒否する人がいますが、それもまた言い争いと変わりありません。自説に閉じ込もり暗に異論と対立している、という点に違いはないからです。

 

議論は不可能であると言って議論を試みないのであれば、議論が成立することは絶対にあり得ません。議論が可能かどうかは、実際にやってみなければ分からないことです。実際におこなう前から不可能だと決めつけるならば、万事が不可能となり、あらゆる可能性への扉が閉ざされてしまいます。

 

 

確かに、議論することは困難であるかもしれませんが、それでも私たちは何度も何度も議論を試みるべきだと思います。マハリシの教えを学ぶ日本の人々のあいだには、教えについて議論することを避けようとする風潮があるようですが、どうして、教えについて議論することが禁忌とされるのでしょうか。誤解を解消するための有効な手段である議論そのものが誤解され、敬遠されるとすれば、それは実に残念なことです。

 

いずれにしても教えは誤解される運命にあります。なぜなら、教えは無知な人間を相手になされる行為であり、無知であるとは自己を誤解することだからです。自己を理解できない者が自己以外の何かを正しく理解することができるでしょうか。教えを学ぶ者はみな、自分が自己についての根深い誤解の上に立っているという事実を決して忘れるべきではないと思います。

 

しかし、教えに触れた私たちは、自分が無知であるという事実をいつしか忘れてしまいます。自分自身にとって最も身近な存在である自己を理解できずにいる、という基本的な事実を忘れてしまいます。そして、自己以外の他の物事を理解している自分という存在に、不当な自信を持つようになります。

 

物事を理解している自分はいったい何者なのか、という第一に理解すべきことを理解していないにもかかわらず、物事についての自分の理解に確信を持つのです。そうして、自己についての誤解から人々を解放するためにある教えでさえ、いとも簡単に誤解し、その誤解に縛られるのです。

 

 

まず基礎の基礎としてこの言葉を知り、もっと謙虚に素直にならなくちゃ…と危機感を覚えました。

 

「ヒマラヤ聖者の生活探究」の記事を何本か出し、今後も出す予定があるんですが、誤解したまま記事を書くことがどんなに罪深い事か(笑)自分なりに分かったつもりになっちゃいけないですね。

 

 

分かったつもりになったところで真我が現れていないし、前世の記憶も取り戻せないし、なおかつ魂が目覚めたと感じ取っていない。

 

それは本当に文章を読み取れたとは言えない。彼の理解をそのまま頭に流し込むことは出来ない。だからもっと素直に、冷静に、静かになる必要があります。

 

教えの真実を理解した「つもり」になるのが一番ダメ。

私達はまだまだ無知の状態になのは確か。まずは無知だと自覚するところから。

 

”【攪乱】フラットアース→マッドフラッド→「メルトロジー」?歴史探究も大事だけど扇動されてない?】”の記事でも書いたんですけど、私達には世間の嘘発見ゲームをやる暇は無いんです。

 

 

本当はそれぞれやるべき事があるんです。仕事や家族や趣味や旅行や友情など…と言いたいところですが、実はそんな事無くて、魂の力に目覚めることのみ。多分それしか求められていません。支配層には。

 

 

真実探究ごっこ=嘘と欺瞞当てゲームは要らない。

 

 

だから、「真実らしき情報(結局真偽不明)」に振り回されたり、リツイートを狙う人たちを崇拝したりするのはもうたくさん!(笑)「真実系インフルエンサーの闇」の記事でも言ったように、碌な人間はいないのです。どこもかしこも集客と商売。

 

 

誰もかれもが「目覚めよ!」と言う割には他人任せで自分は目覚めようと全く考えていない。これって滑稽にもほどがあります。

 

そんな輩がスピリチュアルが~日本人の意識が~とか言われても馬鹿馬鹿しい。何に目覚める?と聞かれたら魂に目覚める。それしかありません。真剣に学びます。

 

 

真剣に学ぶ。自己を理解するために。

真剣に学ぶということがない私たちは、自分がひとまず得た理解を否定することを嫌い、自分の理解をすぐに固定化させ、そこに安住しようとします。教えの真実を探究することなく、自分なりに解釈した教えにしがみつき、それを人生のよりどころにしようとします。私たちは、真実を探究しているのではなく、真実らしきものを見つけて安心したがっている、これが実態のようです。

 

真剣に学び続ける面倒を嫌う私たちは、教えに触れ、いくらか理解を深めることができれば、それで満足します。しかし、あらゆる誤解を否定する真の理解がないかぎり、深まったとされる理解は、自身の誤りを隠蔽する新たな誤解でしかありません。

 

ですから、教えを学ぶ者は、理解が深まったという思いが生じた時にこそ、自分の理解を否定する必要があるのではないでしょうか。そして、私は本当に学んでいるのだろうか、そう問う必要があると思うのです。

 

いかにも真実を装った真実風の情報は要りません。

 

考察の材料の一端として仮説やTwitterの引用を取り上げたりしますが、真偽は不明だし画像も動画もいくらでも捏造できるし、見出しの文章次第でなんとでもなっちゃう(笑)

 

 

でもなんだかんだ言って、当ブログが結局たどり着くのは精神・意識・魂の目覚め。目覚めないと世界のネタバレは出来ないから。大体の記事は最後には目覚めの話ばっかりしてる気がする。だって何も分からないもん。

 

 

意識を静寂に冷静に保ち、あらゆる前兆を見逃さない。

自然=道は誰にでも繋がっており、魂が導いてくれる…はずだから(笑)

 

急に目の前をキツネが横切ったり、部屋の窓ガラスにクマンバチがいたり、何かしらの前兆は既に始まっているようです。

 

でも何が起こるかは頭で考えても分からないし、考えるだけ無駄。普段から「神様の奇跡が起こる」を唱えていると稀にそんな事が起こるのかも知れない。神秘的な現象には期待せず、あくまで自分の現実に何が起こるかを冷静に観察。

 

 

 

私はもっと自分の直感に素直になりたいし、日々周囲で起きる何かの現象にも気づける人間でありたい。

 

肉体の向上は目に見えるけど意識の向上は目に見えない。だから何とでも言えてしまい詐欺やカルトが流行るのが残念。それでも私は私の魂を目覚めさせることに集中します。

 

 

ラマナ・マハルシ氏の言葉で意識向上の勉強し始めます。

 

ここまで記事を読んでくださってありがとうございました!


 

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