聖書に目覚め、「キリスト者」を目指すと現実の見え方が変わる。
自己啓発的師匠もメンターも不要。神の教えと聖書だけが唯一不滅。
こんにちは、黒塚アキラ(@kurozuka_akira )です。目の前に広がる現実は相変わらず不便や不幸を強いられる人が多いです。心身に不調がある人、人間関係やお金や家に問題を抱えている人、いまの生活から抜け出せない人・・・。そんな人こそ、報われる社会であって欲しいです。その為には、一人でも多くキリスト者を増やすこと。
今回は過去のスピリチュアル依存から脱却した話と、キリスト者としての生き方の話。毎日が辛く惨めで、今すぐにでも現実を変えたくて色んなスピリチュアルや成功法則に依存していました。でも聖書とフラットアースに目覚めてから、現実の見え方がすっかり変わりました。
現実の悲惨さは物理的に変えられなくても、神への信仰と祈りと聖書が人生の全てを変えてくれました。キリスト者として言動や態度を磨く精神修行こそが、人生変革への道。そしてこれからも聖書を学び続けます。
日本人が少しでも聖書に目覚め、一人でも多くキリスト者になってもらいたいからです。キリスト者的生き方は本当に素晴らしい。
だからこそあえて過去の失敗やスピリチュアル依存について語り、現在どうやってキリスト者(を目指す人間)として生活しているかを発信する必要があります。
成功法則やメンターと呼ばれる人間は必要ありません。聖書を知ると、そういった人間に関わろうと思わなくなりました。先日投稿した記事のなかでもお話ししていますが、聖書を学び始めると、心身の断捨離が始まります。
先日投稿した記事はこちら。
フラットアーサー兼キリスト者として、日々自己研鑽中。 真のクリスチャンとして生きる知恵を聖書から得ています。 フラットアース・聖書の記事を投稿するのは久しぶりですね。近頃は聖書だけでなく、外典・偽典・原始キリスト教など客観的な評価は気にせずにキリスト教の世界観について片っ端から読んでいま...
数々の失敗、体験談、聖書を読んで得たインスピレーション、経験など・・・これらが誰かの役に立てれば嬉しいです。Twitterだと発信した記録が流れてしまうので、向こうで語るのは辞めました。自分なりの言葉で、ありのままを話してみようと思います。
どうか一人でも多く、聖書に触れる人が増えることを願います。いくらブログで言葉を尽くしても、結局聖書を読んで悔い改めるしか方法がありませんから。
【人間関係を整理】過剰な富・名誉・幸福・夢・感情を諦め、神へ至る道を歩く。
聖書とフラットアースに目覚めてから、このブログの方向性がすっかり変わってしまいましたね(笑)
過去記事はあえて残しています。記事を消したところで過去が消えるわけでも無いし。過去の思考・行動の記録が可視化されているのはとても大事なことです。「昔こんなことを考えていたのか!キモッ!」と再発見できるから(笑)
「人生を変えて、夢を叶えよう、成功しよう」とか、豪華な家・車・ステータス・学歴・服装・美貌・人間関係・職歴・・・そんなものは全て洗脳、まやかし、幻に過ぎません。数々の成功法則、引き寄せの法則、思考は現実化する、ヒーリング、占い、開運、パワースポットも全て。それらは全て聖書の神から遠ざけるための創作された設定に過ぎない。
そんなもの、全て諦めてしまえば一気に人間関係の問題の大部分は片付きます。
成功者になることを諦め、他人を操作しようとすることを諦め、職場の人間関係をなんとかしようとする思いも諦める。そうすると他者の行いや言動も関係なく、心の中にモヤモヤと留まることも無い。
むしろ「彼らが救われるように」と祈る余裕も出てきます。人は自分自身の人生に救いをもたらすことで精いっぱい。彼らの態度や発言は、そのうち彼ら自身に相応の報いがやってくる。
キリスト者は他人を貶めず、他人に嫉妬せず、悲しませたり憎むような発言や行動は一切しません。自分の肉の身体はそうしたくても、必ず自制します。同じ人間だから、イラつくこともあるし、暴言を吐いて返したくなる瞬間もある。
でもそのたびに「真のキリスト者だったら、こんな時どうするか?」を必ず念頭に置き、相応の行動をとります。それがキリスト者のあるべき姿です。
聖書に目覚めたら、とにかく忍耐の日々です。でもストレスが溜まっている感覚はありません。
スーッと身体から抜けて無くなります。辛いけど、楽しい日々だと感じます。それが神に至る道です。不平不満を言わず、誰も憎まず、自分で自分の心を鍛え上げる。あまりにも過酷な精神修行だけど心はあたたかくなります。
【決断】人生を豊かにする「メンター」との繋がりを切った。
聖書とフラットアースに目覚めた今、本当に心から穏やかな時間が始まろうとしています。神が創造したこの地上に感謝し、生み出されたあらゆる物に自然と感謝したくなります。「メンター」なる人間に頼ろうとしていた時期には、こんな感情はありませんでした。
振り返れば結構最近の話。でも辞めました。
彼は何でもできます。株・投資やお金関係にもバリバリ明るいし、不倫成就、出世、病気治癒、縁切り、ギャンブル、離婚、訴訟・・・様々な願望成就。世界情勢を完璧に読み、本当に何でもアドバイスしてくれます。顧客もたくさん。こんな人が日本にいたんですね。金額はめちゃめちゃ高いですが、きっと彼らは現実の世界で大いに救われていることでしょう。
だけどその後聖書とフラットアースを知って彼らに頼ることに迷いが出てきて、接触する道を断ちました。
神に祈る方がもっと簡単で本当の意味で豊かになれることを知ったし、何より悪魔崇拝的だったから。彼らに頼った人たちは裁きを受けるのかも知れないし受けないかも知れませんが、気分的に合わなくなってきたので辞めました。
誰が悪魔と手を組み、悪魔崇拝を行うかは個人の自由です。そこを責める資格は誰にもありません。人生を豊かにするのは自己啓発的な師匠や先生でも無ければメンターでも無い。
あの時頼ったことは、その瞬間においては・・・誤解を恐れず言えば「間違っていなかった」です。おかげではっきりと聖書に目覚めることが出来ました。
誰もが目の前の現実を変えたいと願い、造られたステータスに洗脳され、そうなりたいと考えてしまいます。でも全部幻で、全部嘘。豪華絢爛に願いを叶えても、あっという間に塵になる。あまりにも神がおそろしいし、地獄が怖いです。
【ユジンの放送】ユジン氏が語る「キリスト者的成功法則」とは?
フラットアーサー系YouTuber「ユジンの放送」では、真の幸福について語られています。
彼の話は本当に参考になるし、「なるほど!」と納得します。新しいインスピレーションを得られるし、キリスト者としても非常にレベルが高い。日本人フラットアーサー兼キリスト者のひとりとして、彼は尊敬できる人間です。
最近は色んなキリスト者系ブログやTwitterを見るようになったので、彼の言葉は「キリスト者へ至る道」の一つの方法として学ばせて貰っています。いつか彼のようにもっと多くの人に知恵を伝えられるようになりたいものです。
一度聖書・フラットアースに目覚めたからには、キリスト者として進むしか道はありません。「今はやりたい事があるから、そのうち悔い改めたらいいか」と後回しにしないでください。悔い改める時間は残されていません。
キリスト者の忍耐の日々は誰もやりたくないような事ばかりだけど、それこそが義人としての生きる道です。私たちはキリストの模倣者として生きていかなければなりません。
この世のほとんどの人間は「ユジンの放送」で言う汚弁症。
相手を汚く罵らなきゃ気が済まないし、クソリプしなければ気が済まないし、誰かと比較して誰かを貶めたいし、ネットで晒し上げしなきゃ気が済まない人間ばかり(笑)誰もがキリスト者を目指していれば、こんな思いはしなくて済むのです。
悲しくてむなしい現実ばかりだけど、それでもキリスト者として進み続けなければならない。知らずにいれば幸せだったかも知れないけど、その幸福こそが洗脳であり、地獄への近道。もう振り回されるのはゴメンですね。
でも、この世の全ての「豊かさ」を禁止しているのではない。
「じゃあ一生貧しいままでいないと地獄行きなのか!?一切成功しちゃいけないの?」と思われるかも知れませんが、この世の全ては神が創りだしたもの。楽しまない方がきっと地獄行きです(笑)
全ての豊かさが禁止されているわけではないのは、「ユジンの放送」でも同じ意見です。聖書内で似たような記述があります。
人工的に作られた価値観・ステータス・成功観・ブランド・・・こういった悪魔崇拝的で人を退廃されるものが神にとって許されないのだろうと感じます。
この世は99%悪魔崇拝的なモノであふれかえっているので、程よく見極めて距離を置き、効率よく使ったり楽しむのが理想的です。
悪魔でさえも神を信仰している事実。悪魔と手を組んだ成功やステータスは地獄行き。悪魔は人を選別しています。
悪魔崇拝する自由もあるし、拒絶する自由もある。それがこの世界。神が創り出した地上(フラットアース)です。いつまで存続しているかわからないこの世界に感謝し、程よく静かに楽しんでいきましょう。
神が生み出した世界を「正しく」楽しんでいこう。
聖書は全ての豊かさ・富・名誉を否定しているわけではありません。過去の預言者たちは神と共にいることで生計を立て、社会生活の中で栄えていました。
どんな悲惨な現実であっても、神との一体を信じ、自分自身の精神状態を完璧に整えていたのでこの世界を生きていくことが出来ました。それは「キリスト者としての完全な自立」です。先人に倣いましょう。
人間は結局、そうであるべき。
神を忘れ、聖書をただのおとぎ話だと嘲笑い、信仰を捨ててしまったから、こんなに荒れ果てた世界となってしまったんだと感じます。信仰を得たところで今すぐに現実が変わってくれることはありませんが、のちに必ず救われることとなります。
現実で報われなくても、社会生活で途方に暮れていても、神を信じる限り必ず相応の報いはあります。それが「キリスト者」の生き方です。あらゆる富や幸福が禁止されているのではなく、正しく世界を楽しむ。
キリスト者は正しい見極めの目を持つ事が重要です。
ここまで記事を読んでくださってありがとうございました!